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PSION Serise5 1998.8 購入
・PSION(サイヲン)との出会い
私が初めて PSION の存在を知ったのは、1998 年 2 月、またも登場、Mac Fan に掲載された記事を見たのがキッカケだ。この号の Mac Fan
も別に PSION 目当てで買ったわけではない。表紙の eMate300 と当時購入を計画していたデジカメの特集に惹かれて買ったものだ。私が MP130
を買った頃、Mac Fan には「Newton の法則」というコラムが毎号掲載されていて、私もよく立ち読みしていた。しかし、1998 年当時「Newton
の法則」は縮小され、新たな PDA 紹介コーナー「It's a Small World」の隅っこに追いやられていた。私が PSION を知るキッカケとなったのこの「It's
a Small World」の記事だった。
・マニア心をくすぐるハードウェアデザイン
記事によると PSION はイギリスの PDA で日本ではあまり知られていないが、ヨーロッパでは PDA の代名詞といえる存在とのことだ。まず目を引いたのが、本体ケースを開くことによりせり出すキーボードだ。このギミックのおかげでコンパクトな筐体と打ちやすいキーボードを両立させている。記事によると他にも本体ケースを開かなくても機能するボイスレコーダー、電池やシリアルポート、スタイラスペンの収納方法等とにかくギミックに溢れた筐体らしい。内蔵ソフトの完成度も高く、ザウルス並みの快適さとのことだ。ただ日本語の入力はこの時点ではフリーソフトに頼るしかなく、さらに全てのアプリケーションで日本語を入力できるわけではないようだった。しかし日本語に不自由するのは
Newton でも慣れていた。記事によると 3 月以降には PSION 社と管理工学研究所の協力で日本語版 PSION も登場予定だという。私はこの日から
Nifty-Serve で PSION の情報を集め始めた。ただこの頃の実勢価格は 80,000 円とちょっと手を出せない価格だった。
・購入を断念?
98 年 5 月、噂の日本語版は全く姿を現す気配もなかったが、私の中で PSION への想いは募る一方だった。そんなある日、Nifty-Serve のフォーラムで
PSION S5 を 69,800 円で入手したという発言を見かけた。いてもたっても居られなくなった私は、当時関西で唯一(?)PSION を扱っていた日本橋の
T-ZONE へ出かけた。PSION S5 はあった。私と S5 のファーストコンタクトだ。しかし価格は 74,800 円。とりあえずキーボードを確認。少し華奢な作りだが確かにケースをあけるとせり出してくる。それになかなか打ちやすい。サイズも
Newton に比べるとかなりコンパクトだ。携帯性とキーボード入力のし易さを考えるとギリギリのサイズだろう。「どうしたものか…」店頭にて悩むこと一時間強、私の出した結論は購入見送り、だった。当時確かに私は
MP130 に限界を感じていた。ペン入力はどうも私には向かない。そんな中現れたキーボード付き PDA の PSION はまさに理想のマシンと言えた。しかし、MP130
からのデータ移行の手間、近い将来日本語版が出るかもしれない等色々な点を考慮した末、MP130 用に Newton キーボードと予備バッテリを買うことで、もうしばらく
MP130 を使うと決意したのだった。
・Newton との奇縁1
しかし転機はすぐにやってきた。98 年 7 月終わり、とあるサイトで「PSION 売ります」の文字を発見する。そのサイトは Newton 版 UniFEP
開発メンバーの一人である GNUE(鵺)
さんのサイトだった。当時の私は Newton 関係に限らず色々面白い話題が掲載されていたので GNUE(鵺)さんのサイトを定期的に訪れていた。GNUE(鵺)さんが
PSION S5 を購入して、そのレポートを掲載されているのももちろん知っていた。GNUE(鵺)さんが PSION を見限ったのは少々不安要素ではあったが、これにより失われたかと思えた
PSION 購入の意欲が復活する。Newton の世界で有名な GNUE(鵺)さんの出品ということでライバルも多そうだったが、ダメもとでメールしてみることに。結果、私は
PSION S5 のオーナーとなることができた。S5 が届いた日、興奮からか私は熱を出して寝込んでしまった。
・満足のハード、だが…
私は手元に届いた S5 のギミックに満足した。意味もなくケースを開閉したり、ボイスメモを使ったりしていた。日本語は Kedit と Jmemo のフリーソフトで入力できる。学習機能はないものの十分に使えるレベルだ。しかし、何故か
S5 はしばらく実用されなかった。MP130 からのデータ移行が面倒だったのもあるだろうが、入手した事に満足したのか、実用されるのはその後約半年経ってからだった。
・PSION の為に携帯電話購入
MP130 からのデータ移行は特別なツールがあるはずもなく、手入力で移すしかなかった。少しずつデータ移行を進め、実用としても使いだした。内蔵ソフトは評判通りの使い勝手の良さで、S5
はすぐに私にとって手放せないツールとなった。MP130 と同じくダイアルトーンで電話がかけられたのも助かった。日本語入力は Jmemo で入力したテキストはS-JIS
なので問題なく PC でも読めたが、Kedit で入力した予定表や住所録は PC と連携はできなかった。しかし私の母艦は PB2400 だったので特に連携するソフトもなく不自由はなかった。単体でも十分機能するところが
PSION S5 の良いところだ。日本語メールが読み書きできるソフト JM5 も作成された。私は外回りの仕事をしているわけでもないので、PDA でメールを受信する必要など全く無かったのだが、PSION
でメールを受信したくなり、赤外線機能を搭載した NTT DoCoMo の ノキア製携帯電話 NM207 を購入した。当時私は PHS を使っていた。車にもあまり載らないし、地下でも繋がり、音質が良く、通信速度も速い、おまけに料金も安いとくれば携帯電話を選ぶ理由は無かった。それが
PSION の為に携帯に替えてしまったのだ(アクティブスライドに惹かれたのもあるが)。しかも関西ではまだ販売されていない機種だったのでインターネットを通じて、DoCoMo
東北の契約で入手した。そうまでして入手したのに一ヶ月後に関西でも発売されたのは少しショックだった。PSION S5 + NM207 によるメールチェックは問題なく成功したが、前述の通り、特にメールチェックをする必要があったわけでも無かったので、PSION
用の赤外線モデムとしてはあまり活躍しなかった。
・Newton との奇縁2
しばらく S5 を使っていたが、日本語版発売の噂は噂のままであり続けた。別に現状で大きな不都合も無かったのでその点は気にならなかった。そんな時、Newton
で日本語化を手がけたエヌフォー社が PSION の日本語入力ソフトを開発することになったのだ。そして 1999 年 7 月 UniFEP
for EPOC が発売された。UniFEP の登場により日本語が使える部分が大幅に増えたが、私にとって一番大きかったのは漢字変換の学習機能だ。これにより文章入力が大分し易くなった。しかし
Kedit で入力した日本語はそのままでは UniFEP 上では表示できない。幸い変換ツールは用意されていので、予定表や住所録はまたしても一件一件手作業で変換することになった。
・その後の PSION S5
前述の通り、自宅では Mac を使っていたのであまり PC との連携を考えなかったが、384 さん作の「Agenda さま」登場をキッカケに会社の Win
マシンとの連携をし始めた。Agenda さまは UniFEP で入力された UTF-8 の予定表を S-JIS に変換してくれるソフトで、変換後の予定表は
Outlook 等の PIM ソフトとシンクロ可能となる。これによりますます便利に S5 を使えるようになった反面扱うデータ量が増えて少々処理が重く感じるようになってきた。そんな中、2000
年 1 月 に S5 の画面が急に映らなくなった。この故障を機に、同じく PSION 社の revo を購入、S5 は第一線を退くこととなる。故障から復帰した後
revo の予備機として活躍したが、最新型の revo と比べるとやはり処理速度や液晶の視認性に大きな差があり、次第に使われなくなっていく。一時 Linux
をインストールしたこともあったが、2001 年 3 月、MP130 と同じく PB2400 のパワーアップ資金の為にヤフーオークションへ出品した。
ペン入力型の MP130 と奇妙な縁で結ばれたキーボード付きの PSION S5 は非常に使いやすく私にあったマシンだったと思う。それは次のマシンに revo を選んでいる事からも伺える。EPOC マシンはシェア的には Palm マシンや WinCE マシンに及ばないが、バランスの良さは他のマシンよりも優れていると私は思う。これを書いている今現在、EPOC マシンを使っていないが、日本語版 PSION 5mxPro も近々登場するのでこれからも PSION/EPOC マシンには注目していきたい。