「文庫版 陰摩羅鬼の瑕」
百鬼夜行シリーズ8作目。
死生観についての話。
私は両親や義妹という身近な人を既に亡くしているにも関わらず
どうも"死"というものを軽んじている。
まず恐怖心がない。
masatsu氏は"死"について考えると凄く怖いと言うが私には解らない。
惚ける方が怖いよ。理性がなくなってるのに動く方が怖いじゃん。
死んだら動けないし怖くない。
信心がないというのも死を軽んじているのかもしれん。
死んだら終わりだと思う。
仏壇も墓も生者の自己満足以上の意味はないと思っている。
実は葬式も無駄な行事だと思っていた。
流石に身近な人間を亡くして、残った人間の意識の切り替えに必要な行事だとは思うが
やはりそれは生者の為のもので、死者にはなんの関係もない。
"人の記憶の中で生きる"というのはあると思っているが、それはまた別の話。
自分で「死を軽んじているなぁ」と思うと、
もしかしたら「生も軽んじているのか」とも思う。
自分が死ぬときになってみないと判らない気もするが
死ぬときになっても判らないかもしれん。
生きるのに一生懸命でもないし、
頑張って生きてるわけでもない。
同じ生きるなら楽しく生きたいなと思うだけで
自分のことしか考えてないし。
だから私は自分を凄くフツーの人間だと思うのだ。
大抵の人はこんな風に"死"に対して鈍感なのではないのか?
"生"を無駄にしているのではないのか?
ただ死んでいく為に生きているのがフツーの人。
# 普通という単語が適切とは思わんが他に言葉を思いつきません。何?この語彙の貧困さ。
# 語彙が貧困なせいで思った文章が書けなくてイライラする(苦笑)